船倉賞

「喫茶セーラ」

世良 五百枝(せら いほえ)

  彼(夫)はコーヒー通だった。結婚した頃、薄給でもお構いなしに、高いブルーマウンテンの豆を買ってきて愛しむ様にミルで挽き、サイフォンで美味しいコーヒーを飲ませてくれた。
  その香りに引き寄せられる様に、当時オンボロの狭い借家の我が家には来客がよくあり、(中にはお気に入りのカップを持参して置いて帰る者もいた)ひと時楽しい会話が弾んだものだ。
  その彼が五十二歳の時、人間ドックで直腸癌が見つかり手術、七年後にそれが脂肪肉腫に変貌して以来八年、手術、又手術の連続。でもだんだん体全体に転移していって、その手術も出来なくなり、現代医学ではもう治療の手立が無く、退院を余儀なくされ、近くの総合病院へ転院し、自宅から私の運転で痛み止めと栄養剤等の点滴を受けに毎日通院し、その帰り、海を眺めに行ったり、行き付けのコーヒーの美味しい喫茶店に立ち寄ったりし、後は自宅で、音楽を聴きながら庭を眺めたり、友人知人、親族の来訪を楽しみにして穏やかに過ごした。
  自宅療養になって、電動のミル付のコーヒーメーカーを彼の為に買った。それで彼は見舞客が来てお喋りの花を咲かせている時、頃合いをみては
「五百枝さん、そろそろお茶にする?」
と言い、ヨタヨタしながらも嬉しそうにコーヒーを入れてくれた。やっぱり彼が入れてくれたコーヒーは本当に美味しかった。
  今も変わらず来ている者は私が出すと、
「あ~ぁ、晴彦さんのコーヒーが飲みたーい、本当に美味しかったよね!」と思い出話をし懐かしがる。
  今年から近所の旅友のKと朝食を一緒にしているのだが、彼女の入れるコーヒーが美味しいので食後のコーヒーは何時しか彼女の仕事になった。
  旅友、コーラス、水泳、ダンス、ふだん記、絵、その他の友人知人が出入りをする度に、我が家は豆かすとコーヒーカップの山が出来る。それを見たKが「まるで喫茶セーラね」と言って笑った。
  十年前に逝った彼もきっとこの言葉を喜んでくれている事だろう。

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