
上原 裕美
虫の発生が収まらない。いくら予防散布を繰り返しても、次々と虫が発生してくる。
当時、花の品種改良に取り組んでいた私は、育成中の花が次から次へと被害にあっていくのを茫然と見つめていた。
こうなったら専門家に指導を仰ぐしかない。病害虫の研究室へと足を運んだ。
職員は現場に出ているようで、研究室には誰もいない。意を決して部長室の扉を開けた。
「部長。虫の発生が止まりません。防除するのに何か良い殺虫剤はありませんか」
机に向かって仕事をしていた部長は、ペンを置いて私を見るなり、「コーヒーを飲みますか」と言って立ち上がった。
そして部屋の一角でお湯を沸かし、ドリッパーをセットし、手なれた様子でコーヒーを入れ始めた。
しばし、静かな時間が流れていった。いい香りが漂ってきて、これまでドキドキしていた胸の高鳴りがいつの間にか納まってきているのを感じた。私の前にコーヒーが差し出された。「どうぞ」
これまで近寄り難かった部長がとても身近に思えた。
「いただきます」実は入れたてのコーヒーを飲んだのはこの時が始めてであった。
「一体どうしました」おもむろに話しを切り出された。
いくら農薬を散布しても虫の発生が収まらない事や供試用の農薬の提供を申し出た。
部長は静かに、しかも丁寧にわかり易く話しをしてくださった。
今から三十年も前の話である。
定年前の数年間。職場が慌ただしく、ピリピリしている時には心を込めてコーヒーを入れるよう努めた。かつての部長がしたように。